片足のアスリートが体現する「挑戦の可能性」
開幕を間近に控えたパリ2024パラリンピック競技大会。本大会で3度目のパラリンピック出場を果たすのが、日本を代表する片足のオールラウンダー・川本翔大(かわもと・しょうた)。東京2020パラリンピック競技大会では最高4位、直近の世界選手権では銀メダルを連発し、パリでは金メダルが期待されるエースだ。
7月某日、伊豆合宿中の川本の元へ訪れた。パリへの意気込みはもちろん、これまでの道のり、障がいと挑戦、支えてくれる存在など、一人のパラアスリートのリアルを語ってもらった。
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障がい者野球で世界へ、片足のスポーツ万能児
「自分はスポーツしかできないので」。川本は屈託のない笑顔で、そう語った。
1996年生まれ、広島県三次市出身の28歳。取材で訪れた伊豆ベロドロームを駆ける姿は、片足とは思えない。加速は力強く、ペダリングは美しい。トップスピードも圧巻だった。
生後2ヶ月で、ふくらはぎに悪性腫瘍が見つかり膝上から左足を切断。物心がついた時から松葉杖と共に生きてきた。
冒頭の言葉を証明するように、少年時代の川本はまさにスポーツ万能。バスケ、サッカー、テニス、卓球と、さまざまな競技に取り組み、サッカー同好会を立ち上げたこともあるという。仲間と共に体を動かすことが心から好きだった。
高校では野球部へ。「義足よりも松葉杖の方が速く、自由に動けるから」と、松葉杖を脇に挟んでバットを振り、マウンドを駆けた。夏の甲子園をかけた地方予選。松葉杖ではチーム行進に出られないと言われ、しかたなく義足を作ることになる。
「その時、野球のトレーニングシューズを履いて病院へ行ったんですが、義肢装具士さんから『野球やってるの?』と、障がい者野球に誘われて」。
それから高校の野球部を辞め、公式戦に出られる障がい者野球に熱中。持ち前の運動神経を発揮して、高校3年の時に日本代表に選ばれ、世界選手権へ出場。準優勝に輝いた。
「健常者とはやり方は違うんですが、自分なりに工夫してやってきました。と言うよりも、それすらも考えてなかったかな(笑)。みんなと一緒にスポーツがしたい、ただそれだけでした」。
自転車で挑んだパラリンピックの大舞台
高校卒業後は地元企業に就職。ある日、障がい者野球の先輩にパラサイクリングを勧められた。「あんまり乗り気じゃなかった。先輩に言われたからしかたなく」という軽い気持ちで、2015年8月、大阪で開催された選手発掘事業に参加。これが転機となる。
初めてまたがったロードバイクの感想は「サドルの位置が高いな…くらい」。川本はピンと来ていなかったが、美しく回転するペダルに才能を感じた人物がいる。パラサイクリング日本代表監督であり、JPCFハイパフォーマンスディレクターの権丈泰巳(けんじょう・たいし)だ。「次の合宿に来てみないかと誘われました」。
後日、権丈自ら広島の実家へ出向き、自転車とローラー台を運び込んだ。平日は広島で働きながら自転車に乗り、週末は練習拠点の伊豆ベロドロームへ通う日々が始まった。本気で接してくれる権丈の熱意と自転車競技のおもしろさに、パラサイクリングへのめり込んでいく。
より練習に励むために、仕事を辞めて伊豆へ移住。「次の仕事が決まるまでは面倒をみる」という、権丈の計らいも背中を押した。環境が整った川本の才能は一気に開花。競技開始から4ヶ月で世界選手権へ出場。8ヶ月後には、リオ2016パラリンピック競技大会への出場を果たす。
急激な変化で折れかけた心と恩師の支え
「始めた頃は、練習した分だけタイムが伸び、大会毎にベスト更新。すごく楽しかった。けど、リオへの出場をきっかけにタイムが落ちていきました」と、表情を曇らせる。
パラアスリートの憧れであるパラリンピックだけに、緊張は国内大会の比ではない。しかも、2度目の海外遠征が地球の裏側であり、世界が注目する舞台。競技を見守る大観衆に頭が真っ白になった。「当時の記憶がないというか、選手村で過ごしたことも覚えていなくて……。唯一覚えているのがバスに乗って会場へ向かったことぐらい」。
プレッシャーに耐えられなかったのではない。競技を始めてたったの8ヶ月。少し前まで高校に通っていた青年の心は、あまりにも急激な変化に心がついていかなかったのだ。最高成績はトラック種目3㎞個人パーシュートでの8位。手ごたえも、現実感すらも感じられないまま、初めてのパラリンピックは幕を閉じた。
今までスポーツは楽しむものだった。パラサイクリングを始めたことで、スポーツは競うものになり、リオからは辛いものに変わってしまった。「自分はもう無理なのかなって。世界との差を痛感しました」。
リオからの帰国後、パラサイクリングを続けるかどうか権丈と話し合った。深い落ち込みを感じた権丈は、こう提案する。「辞める」か「辞めないか」の二択ではなく、「どう続けるか」の選択肢。具体的には、地元広島に戻って自主トレーニングを続けるか、このまま伊豆に残って続けるか。川本は前者を選んだ。
「自分だけで決めていたら、間違いなく辞めていた。そこを上手く誘導してくれたというか。伊豆での練習は、すでに世界と戦う先輩たちとの合同。自分だけレベルが違う環境が苦しかったのもある。だから、一度広島に戻ろうと」
川本の性格を良く知る権丈だからこそできたサポート。これが無ければ、一人のパラアスリートの未来が途絶えていただろう。
東京パラリンピックで確信した手ごたえ
広島への帰郷は約1年間。自主トレーニングを続けつつ、家族や友人が近くにいる地元で英気を養った。その後、再び伊豆へ。次の目標である、東京2020パラリンピック競技大会に向けたトレーニングが始まった。
「そこからは強くなることだけを考えました」。コーチの指導のもと、苦手だったロード練習へ本格的に取り組み出した。ロード競技の楽しさを知り、ロード練習の大切さも学んだ。機材面でも、左足の太ももを固定するカップを取り付けるなど工夫を凝らした。その成果もあり、着実にタイムは向上。東京でのリベンジに向け、地道な努力を積み上げていった。
2021年8月、コロナ禍による延期を経て、パラリンピックが開催。「とにかくやる!」の一心でレースに挑んだ。トラック3km個人パーシュートで4位入賞。素晴らしい結果を残すことができた。
実はこの記録、上位の4名の選手のうち1名が失格となり、5位だった川本が繰り上げとなり、3位4位決定戦を走ることになったのだ。帰り支度をしていた川本は、急いでアップし、無心にトラックを駆け抜けた。
惜しくもメダルにこそ手は届かなかったが、これからに繋がる大きな経験を得ることができた川本。「できることはやり切った」と確かな手ごたえを感じ、東京でのパラリンピックが終わった。
パリへ向け、ただ上だけを見て突き進む
東京パラリンピック後、以前より一つ一つの練習を大切にするようになったという。フォーム改善や数値を見ながら効率的な練習を行うなど、目の前に迫るパリ2024パラリンピックに向け、今も強化チーム一丸となって取り組んでいる最中だ。
「良い感じに伸びている実感がある。積み上げてきたものに芽が出たというか」。その証拠に、近年の成績は目覚ましいものがある。2022年のトラック世界選手権(フランス)では、3個の銀メダルを獲得。2023年のトラック世界選手権(イギリス)では、銀2個、銅1個。2024年1月のロードワールドカップ(オーストリア)では、銀と銅。3月のトラック世界選手権(ブラジル)では、銀2個、銅2個。表彰台の常連として世界トップクラスの成績を維持し続けている。
とても順調に見えるが、実はこの間に大きなハードルを乗り越えていた。それは、トップアスリートのみが感じるプレッシャー。2023年に銀メダルを3個獲得した後、「次は金」と周囲の期待は否が応でも高まった。また、表彰台に上がったことで、追う側から「追われる側」へ。
「このプレッシャーが、これまででいちばんキツかったかも知れないです。金を取れるのか? そもそもメダルを取れるのか? 下から追い抜かれないか? 不安でしかたなかった。けど、今はもう大丈夫。その後もコンスタントに上位へ食い込むことができ、自信がつきました。もう下は見ていません。上だけを見て戦っています」。フィジカル、メンタルともに、パリの表彰台のトップへ立つ準備は万端だ。
強い身体と心を育てた母という存在
障がいを持ちながらも、常にポジティブに歩み続ける川本。「片足を嫌だと思ったことがないし、両足で走りたいと思ったこともないですね」と、障がいの存在を気にも留めていない。そのマインドが培われた裏側には、母の存在が大きいという。
「昔からどんなスポーツをするのも、危険だからやめなさいとは言われなかった。 責任を持って、自分でやっていけとだけ」と語る川本。そっけないようにも感じられるが、スポーツに必要な道具は惜しみなく買ってくれた。スポーツで酷使する松葉杖は頻繁に壊れたが、一言の文句も言われなかったという。
幼少期にはこんなエピソードもある。幼稚園に入る時、母は膝から下がない川本の左足を周りの子どもに触らせたという。健常者が多い環境に息子を送り出すにあたり、「足がないことを知ってもらう」ことから始めたのだ。
「障がいをマイナスに捉えないメンタルは、僕の気づかないうちに、母に作ってもらったんじゃないかな」。息子の障がいを理解したうえで、少しでも可能性を狭めないよう、身体も心も強く育てたい。そんな母親の愛情が伝わってくる。
「母、権丈さん、一緒にトレーニングに励む選手やコーチ、連盟スタッフはもちろん、高校野球の監督、障がい者野球のメンバーとか、いろんな人に道を開いてもらって、自分が今、ここにいるんだと思います」。
虹の向こう側、挑戦が拓く障がいの可能性
本人の努力、支えてくれる人たち。二つが重なり合うことで世界のトップアスリートとして活躍するまでになった。しかし、なぜ心身共に苦しみながらも、パラサイクリングを続けるのだろうか?
「いちばんは、自転車に乗ることが楽しいから。世界の強豪と走る喜びもありますし、その選手たちに認められることも嬉しい。パラサイクリングを通じて世界と繋がったというか。両足があったらスポーツをやってなかったかもしれない。だから、無くてよかったと」。
障がいと一言に言っても、さまざまな障がいがある。100人いれば100通りの悩みや不安があり、誰一人として同じ人はいない。競技で世界中を回る中で、自分とは異なる障がいを持つ人たちが、それぞれの工夫を持って戦う姿を見てきた川本。自身の経験を踏まえ、未来のパラアスリートにこう語りかける。
「自分も幼い頃、野球部に入りたいけど、みんなと同じにできるかな……と、正直、不安な気持ちもありました。けど、飛び込んでみたら、みんな対等に接してくれて、本気のボールを投げてくれた。おもしろそう、やってみたい、と感じたらまずやってみること。ダメならダメで良い。挑戦することで視野が広がるし、自分のように引き上げてくれる人に出会えるかもしれない。とにかく、ビビらずに挑戦して欲しい」。
障がいという違いは、溝となり、壁となることがある。しかし、本当の壁はどこにあるのだろうか? 自分自身が心の中に作る「諦め」という壁こそ、乗り越えるべきもの。可能性を拓くカギは、いつも自分の中にある。
目の前に迫ったパリパラリンピック。目標は?「目指すのは金。打倒、1位!」と、笑みをたたえながら力強く答えてくれた。その視線は、すでにパリの先も見据えている。「世界選手権で優勝して、アルカンシェルを着たい」。アルカンシェルとはフランス語で「虹」の意。世界選手権でチャンピオンに授与される、虹が描かれた特別なジャージだ。
青、赤、黒、黄、緑。障がいと可能性をつなぐ、挑戦という名のアルカンシェル。澄んだ青空に弧を描く、まぶしい風景が目の前に広がった。
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