ゴーッと地を這うような音とともに競技場のトラックを走る2人乗り自転車。タンデムと呼ばれるこの競技は、前方に乗る晴眼者が「パイロット」としてハンドルを操作し、「ストーカー」と呼ばれる視覚障がい者が後方に乗り、2人一組でレースを行う。通常の自転車に比べ2人分のエネルギーが注ぎ込まれるだけあって速さは時速70㎞。1㎞をわずか1分で駆け抜ける。
 
男性2人を乗せた車体は大きく重厚で、前へ前へと突き進む姿は、まるでサバンナを疾走する勇猛なバッファローのように見えた。

初めて味わった「取り戻す喜び」

このタンデムペアで後方の「ストーカー」を務めるのが木村和平(きむら・かずへい)だ。「こんにちは」と取材会場にやってきた様子は運転中のイメージとは一変、非常に穏やかだ。
 
生まれつき視力が0.2だった木村は、現在は0.04まで下がり「弱視」という障がいを持つ。ただ幼少期から体を動かすことが好きで、小学3年生でサッカーを始めると、持ち前の運動神経の良さを発揮し、高校もサッカーができる環境を選んだ。

異変を感じるようになったのは、高校1年生の頃。試合でヘディングしようとしたところ、思い描いたポジションとボールの位置が大きく異なり、チームの失点に直結するミスを犯してしまった。当時の視力は0.1。「このままではプレースピードにもついていけない」とサッカーの道を断念した。
 
その後、盲学校に進学した木村は意外な世界と出会うこととなる。指導教諭の縁で学校にパラサイクリング連盟が体験会にやってきたのだ。初めてタンデムに乗った日のことを、木村はこう振り返る。
 
「単純に『楽しい!』と思いました。それまで『できないこと』がどんどん増えていく中、パイロットの力を借りれば、また自転車に乗ることができるんです。それが本当に嬉しくて。風を切る爽快感を久々に味わいました!」
 
視力が落ち徐々に変化していく日常に、自分自身やりきれない感情を抱えていたのだろう。タンデムとの出会いは、木村にとってこれまで失ったものを取り戻す新たなスタートとなった。

笑顔の木村選手を正面から映した写真。赤と白のJPCF公式ポロシャツを身に付ける。ポロシャツには肩口に青い文字でSHIMANO、ボタンを挟んで向かって左側に上からヤマトライス、マーシュジャパン、NIPPO、EIGHT、右側に上からいわき平けいりん、Kabuto、ヴィットリア、ワコーズなどスポンサーロゴが並ぶ。背景は板張りの伊豆ベロドロームのコース。
「最初は自転車に全く興味がなく、体験会も指導教諭に言われて渋々参加しました」と笑う木村。思いがけないタイミングで運命が動き出した

異なる2人が分かり合うために

木村がよく口にする言葉がある。「どんなことにも必ず意味がある」。
 
「僕は結構『運命』みたいなものを信じていて、人との出会いや身の回りに起きるでき事には必ず意味があると思っています」。そう考えると、倉林巧和(くらばやし・たくと)との出会いもやはり運命だったのだろう。
 
倉林とは、木村が初めて正式にペアを組んだパイロット。当時20歳だった木村に対し、25歳で元トラック中距離選手として活躍していた倉林は、ペアであり、コーチであり、兄同然の存在だった。木村は倉林から自転車の乗り方、競技スキル、心構え、全てを教わった。
 
倉林の指導で最も印象に残っているのが「焦らず、淡々と」という姿勢。中距離は最初から一気に加速するとエネルギーを使い果たし、後半でタイムが伸びなくなる。1周ごとにカウントされる秒数に捉われず、自分たちのペースでレースをしようという意味だ。落ち着いた口調で冷静に取材に応じる木村の様子は、どこかこの言葉を体現しているように見える。
 
ペアを組んだ当初から、倉林と木村は練習時間の多くを話し合いに費やした。タンデム自転車の場合、パイロットとストーカーのペダルがチェーンで連動しているため、2人で息を合わせて漕がなければ大きなタイムロスとなる。ましてや時速70㎞の超高速競技。1000分の1秒を競う世界では、少しのズレも命取りとなる。見えない木村と見える倉林。異なる立場の者同士がお互いの感覚を理解し合うため、走行中に何を感じ、どう考えたのか? 何度も話し合い、わずかなズレを調整した。
 
特に力を入れたのが、走行中に立ち漕ぎを始めるタイミングだ。当初は倉林が声をかけていたが、それでは立ち上がるまでの動作にズレが生じてしまう。そこで研究を重ね、倉林が肘を外に開く合図に変更。練習を繰り返し、フォームを完成させた。
 
そのかいあって、2018年のアジアパラ競技大会(インドネシア)ではロードタイムトライアル、4㎞個人パーシュートの2種目で優勝。その後も、数々のレースで好成績を収め、東京2020パラリンピック競技大会出場に向けて着々と準備を進めていった。

向かって左側に木村、右側が東京大会前までパイロットを務めていた右側に倉林 巧和(たくと)。二人とも日本代表の白と赤の肌に密着する半袖ジャージとハーフパンツ姿。肩を組んで、こちらに笑顔を見せる。手前には二人が乗る黒いロードバイクタイプのタンデムが置かれる。木村の右手は後部のサドルに添えられている。
木村曰く「僕がタンデムを好きなった理由の1つは倉林巧和がパイロットだったからです」。この言葉からも、倉林への親愛の情が見てとれる

忘れられない痛恨の幕引き

しかし結果は、代表落選。日本に与えられた出場2枠に対し、3番手となる木村・倉林ペアは、世界への挑戦を断念せざるを得なかった。
 
「倉林さんは東京大会で引退すると決めていたので、綺麗な形で送り出せなかった悔しさが今でも圧倒的に残っています。『先に辞めてごめんな』と言ってくれたけど、去っていく人の方が絶対に辛いから。倉林巧和という才能を生かすだけの実力が、僕にはなかったということです」
 
それまでどこか達観した様子で自らを語っていた木村が、唯一感情をむき出しにした瞬間だった。
 
実は東京大会落選後、2人に対し「本気じゃなかったんだろう」「無駄な時間だった」と否定的な意見が寄せられた。これまでの努力を踏みにじるような言葉を浴びせられ、兄と慕う倉林の自転車人生の幕引きを汚されたことが、どれだけ悔しかったことか。
 
落選からパリ2024パラリンピック競技大会までの3年間を振り返り「自分たちがやってきたことは無駄じゃなかったと証明する。その思いはずっと心にあります」と木村。抑えきれない感情が言葉の端々からにじみ出る。

木村の後ろ姿。黒い袖に白の長袖ジャージに黒と赤のハーフパンツを身に付ける。背面にはRakutenの赤いロゴが入る。両手で頭に被る赤と白のヘルメットを押さえながら、青い伊豆ベロドロームのコース内側のエリアを歩く。木村の正面には板張りのコースが見える。
「日の丸を背負う自覚をしっかりと持って戦うように心がけています」と木村。日々その重責と戦いながら、厳しい練習に励んでいる

タンデムペアに最も欠かせないもの

倉林の引退後、木村はパリ2024パラリンピック競技大会に向けて新たな体制を整えた。
 
一つは、短距離への転向。実は2020年以降、筋力や瞬発的な最大パワーが増大した。幼少期からサッカーで培った瞬発力やスタミナが良い形で芽を出したのだろう。そこで東京大会後、3年かけて18kg増量し、短距離に耐えうる肉体へと鍛え上げた。
 
「自分たちの専門種目をしぼり、世界でしっかり戦えるペアを作りたかった」と話す言葉から、パリ大会にかける木村の本気度が伺える。
 
そしてもう一つは、三浦生誠(みうら・きあき)とペアを組むことだ。三浦は大学の自転車競技部でタンデムパイロットの経験を積み、現在は木村のパイロットを務めながら、競輪選手の養成所に通っている。

タンデムに乗る木村と三浦を左横からとらえた様子。赤と白のヘルメットを被り、黒い袖の白のジャージに赤と白と黒のハーフパンツを身に付ける。肩口ともも付近にはRakutenの文字が白色で入る。板張りの伊豆ベロドロームのバンクを走る。三浦の手は自転車前方に突き出した日本のDHバーと呼ばれる部位にかかり、深い前傾姿勢をとる。木村は手前にかまきりの腕のように曲がるドロップハンドルと呼ばれる部分のカーブの強い箇所を握り、体を低くしている。
木村の強みは、競技後半のスタミナ力。1㎞タイムトライアルの場合、通常は前半に比べタイムが大きく落ちるが、木村は常に一定のスピードで漕ぎ続けることができる


 
新たなペアを組むに当たり木村は、倉林が自らにしてくれたように徹底的に会話を重ねた。練習時間のうち6〜7割は話し合いに割くと言う。「パイロットは僕の目となり一緒に戦ってくれる人です。疑問や不信感を抱いていては戦えません。相手を信頼するために、一つひとつ言葉を交わし理解を深めます」。
 
とは言え、「相手を信じる」とはそう簡単なことではない。頭では分かっていても、心の底から信頼し身を委ねることができるだろうか? いざという時、咄嗟に自分を優先し逃げ出してしまうことはないのか?
 
この疑問に対し一つの答えを示すのが、2022年に起こった三浦の事故だ。別のレースで転倒し、選手生命に関わるケガを負った。事故直後は自転車が怖く、タンデムはおろか自分一人で乗ることさえできなかったそう。1ヶ月間は自転車から遠ざかり、パイロットという役割にも自信を持てなくなったと言う。

試合への影響を考えれば、別のパイロットに交代するという方法もあっただろう。しかし2人は、その後も共に練習を重ねた。最初はスピードを抑え短距離から始め、成功体験を重ねることで少しずつ恐怖心を取り除いていった。

この時のことを振り返り、三浦は「僕の後ろに乗る木村選手だって絶対怖かったはずなのに、『大丈夫だから』と言って練習に付き合ってくれました。あの時木村選手がいなかったら、僕は本当に自転車を辞めていたかもしれません」と語る。

ペアについて木村は語る。「僕は絶対信じると決めています。そうでないと命を預かって走ってくれる人に失礼だから。僕が返せるのは100%信じること。死ぬ時は一緒だと思っています」。

そもそも覚悟が違うのだ。パリ大会を目指してペアを組んだ時から、木村に「逃げる」という選択肢はない。生半可な気持ちでペアを組んでいないという強い気持ちが伝わってくる。

2022年全日本選手権での1kmタイムトライアルの日本記録樹立、また翌2023年アジア選手権(マレーシア)での1kmタイムトライアル、4km個人パーシュート、200mタイムトライアルでの3冠などの好成績を見ると、2人が積み上げてきた時間がしっかり結果に結びついていることが分かる。

向かって右側、室内で自転車のトレーニングができるワットバイクにまたがる木村。左側は白いロードバイクにまたがる三浦。木村は白と灰色の迷彩柄のファン付きベストを黒い長袖ジャージの上から着用し、ハンドルから手を放して笑顔でペダルを回している。三浦は黒い袖に白色、胸元に赤、肩口に白でRakutenのロゴが入る体に密着するジャージを着用し、木村の方に目線を送り微笑する。二人の背後には伊豆ベロドロームの板張りのコースと白い客席が見える。
パリ2024パラリンピック競技大会に挑む木村・三浦ペア。現役の競輪養成所の学生が初出場する点でも注目を集めている
 

自分も社会も変える、はじめの大一歩

タンデム競技においてよく誤解を招くのが「パイロットがストーカーを介助している」という見方だ。これに対し、ストーカーである木村自身はこう語る。
 
「あくまでペアであり、決して『助けてもらう』関係ではありません。ただ、こういう見方をされる背景には、タンデムに限らず、社会的に“障がい者=助けてもらう側”という見方があると思います。障がい者自身にも甘えがあって、助けを待っている節もあるでしょう。ただ僕らは、できないこともあるけど、できることもあるし、やってみたら意外とできた! ってこともある。もっと『できること』に目を向けてほしいです」
 
フォーカスする部分を「できないこと」から「できること」に変えれば、障がい者自身も、自らの人生をもっと能動的に切り拓いていくことができる。そして、自分との向き合い方についても次のように続ける。
 
「だからと言って、家に閉じこもって一人で考えるということではなくて、まずは一歩外に出てほしい。そうすれば人との出会いが生まれ、その出会いがいろんなものを連れて来てくれます」
 
木村自身もタンデムと出会い、失ったものを取り戻すことができた。自分の殻を破り一歩外に踏み出すことで、視野が広がり世界が変わる。
 
また、その一歩が、障がい者だけでなく社会全体にも影響を与える。
 
「一昨年、健常者の大学生が、視覚障がい者と共に遊べるゲームを開発しました。動機は、一緒に遊びたいという思いから。障がい者と関わりを持つことで、こうして健常者が共生について考えるきっかけになります。こんな出会いがあちこちで生まれれば、結果的に社会全体が良くなっていくはずです」。
 
この思いを伝えるべく、木村はパラサイクリング連盟の活動を通して各地の体験会に積極的に参加している。障がいがあってもできることはある。工夫次第で、夢を叶える方法だってたくさんある。木村自身がパラサイクリングでそのことを実感しているからこそ、より強く「伝えたい」と思うのだ。

赤と白のJPCF公式ジャージを身に付け、ワットバイクを漕ぐ木村選手。ジャージには様々なスポンサーのロゴが記されるハンドルのブラケット部分を握り、ハンドルの前に取り付けられたモニターを見ている。背景には伊豆ベロドロームの板張りのコース。
「自分がパラサイクリングと出会ったのは運命」と語る木村。自分のこれまでの経験を生かし、地元・北海道での地域貢献にも意欲を見せる

感謝は本番の結果で返す

8月28日から開幕するパリ2024パラリンピック競技大会は、木村にとって悲願の出場だ。木村・三浦ペアは、メインとなる1000mタイムトライアルで自己ベストを目指す。
 
意気込みを聞くと、「パラサイクリング関係者、また三浦君の競輪関係者への感謝を忘れず2人で最高の走りを見せたい」と語った上で、「これまで自分とペアを組んでくれた歴代のパイロットたちに感謝を持って挑みたい」と語気を強めた。
 
木村曰く「今の自分があるのは、過去に出会ったパイロットたちのおかげ」。もし最初から三浦と組んでいても良いタイムは出なかっただろう。これまでのパイロットとの時間があったからこそ、今、三浦と最高の走りができる。
 
木村にとって、パイロットは自分の目となり一緒に戦ってくれるだけでなく、アスリートとして挑戦の場を与え、育ててくれた存在。自分の成長こそが彼らへの感謝の証だと考えている。
 
「恩返ししようにも、お金で返せるものではありませんから。『あなたのおかげで今、選手として走れています』と伝えるには、結果で返すしかありません。本番では、今まで携わってくれたパイロットたちの思いも背負って挑みたい」
 
こう語る背景には、木村が常々自問する「自分には何を返せるか?」という考えがある。確かに障がいを抱え周囲に助けてもらう機会は多いものの、決してその立場に甘んじず、自分が相手に対し何を返せるか考え努力する。
 
それは、もちろんパラサイクリングにおいても同様だ。これまで共に戦ってくれたパイロットたちに感謝しているからこそ、その恩に報いたいと貪欲に世界を目指す。助けてもらうだけでなく、自分も助ける存在へ。その思いがまた木村を強くする。
 
なかでも最も長くペアを組んだ倉林について尋ねると、
 
「あの人がどれだけすごいパイロットだったかということを証明したい。その思いは、今もずっと変わりません」と熱を帯びた口調で語った。
 
どんなことにも必ず意味があると信じる木村にとって、東京大会での雪辱は決して無駄なことではない。パリ大会までの3年間、その悔しさをエネルギーに変えひたすら前へ突き進んできた。勝負の地・パリは、その真価を証明する場。過去も現在も全てを糧にして木村は全力でペダルを漕ぐ。必ずやその先に、思い描いた未来があると信じて。

椅子に座りモニターを見ながら走りを確認する木村選手と三浦選手の後ろ姿。二人とも黒と白のRakutenのジャージを身に付ける。画面の前にはJAPANと書かれた黒いシャツを着る沼部ヘッドコーチの姿。背景は板張りのコース。
走行練習を1本するたびに、撮影映像を元にコーチらと入念にフォームや感覚のズレをチェック。パリ大会に向けて最高の仕上がりを追求する

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